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理事長ブログ 4ページ目

お墓と宗旨・宗派⑫曹洞宗/永平寺(福井県)・総持寺(横浜市)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/200822/

■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/220918/

■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/241446/

お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271022/

■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271029/

■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/071000/

■お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/111005/

お墓と宗旨・宗派⑨時宗/清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/211122/

■お墓と宗旨・宗派⑩融通念仏宗/大念仏寺(大阪市)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/11/091448/

■お墓と宗旨・宗派⑪臨済宗/建長寺派(鎌倉)南禅寺派(京都)など14派

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/11/101326/

 

上記のコラムからのつづきです。

 

 

禅宗は達磨大師からはじまりますが、
第六祖に慧能(えのう)という禅僧が出て、
曹渓という山に住んで今日の禅宗の基礎を築きました。

そして、慧能の弟子に良价(りょうかい・809〜869)という禅僧が輩出し、
洞山という山に住んで禅風を広めました。


師の慧能が住んだ曹渓と、
弟子の良价が住んだ洞山をとって
曹洞宗と名付けられました。

宋代(8世紀)頃からは臨済宗とともに
中国の禅宗の二大流派として栄えました。

道元(1200〜1253)が入宋して、
洞山第十三世、天童如浄に教えを受け、
足掛け5年に及ぶ留学生活を終えて帰国し、
曹洞禅を広めたのです。

 

永平寺.jpg

曹洞宗大本山・永平寺(福井県)


道元は越前(福井)に永平寺を開き、
禅風を広め、日本の曹洞宗の基盤を確立しました。

道元の禅は只管打坐(しかんだざ)といい、
文字通りひたすら座禅に専念することを旨としました。

しかも、その座禅はただ座って瞑想することではなく、
掃除や炊事など日常の雑務、あるいは、洗面や入浴、
トイレに行くなど日常の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、
すべてを座禅ととらえ、それらの行動に専念することで、
悟りの境地に至ると考えたのであります。

道元の後には『正法眼蔵隋聞記』を筆録した
永平寺第二世・孤雲懐弉(こうんえじょう)が輩出して、
道元禅の普及を図ったのです。

 

総持寺・祖院.jpg

元の曹洞宗大本山、能登の総持寺祖院(石川県)
 

しかし、第三世・徹通義介の弟子に
螢山紹瑾(けいざんしょうきん)が輩出し、
彼は道元禅の改革を図り、
後に能登に総持寺を開いて永平寺とは一線を画しました。

ここで、曹洞宗は永平寺と総持寺の系統に
分かれることになったのであります。


以降、両者の間には確執が生じ、
一時は戦争になったこともありました。

しかし、江戸時代になると、徳川幕府の配慮で
永平寺と総持寺を同格の大本山と定め、
その後は、両山の住持が交替で曹洞宗の最高権威である
管長を務めることになりました。

現在、曹洞宗は末寺約1万6千ヵ寺を擁し、
浄土真宗に次ぐ、わが国最大級の宗派を形成しています。

 

総持寺.jpg

曹洞宗大本山・総持寺(横浜市)


ちなみに、能登の総持寺は明治31年(1898)に火災に遭い、
これを契機として明治44年(1911)に横浜市鶴見区に移転しました。

ただし、能登の総持寺はその後、再興され、
今も総持寺祖院と呼ばれて多くの信者を集めています。



          ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1924号

 

 

 

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お墓と宗旨・宗派⑪臨済宗/建長寺派(鎌倉)南禅寺派(京都)など14派

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■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

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■お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

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お墓と宗旨・宗派⑨時宗/清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)

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■お墓と宗旨・宗派⑩融通念仏宗/大念仏寺(大阪市)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/11/091448/

 

上記のコラムからのつづきです。

 

 

9世紀に中国で臨済義玄(?〜867)という禅僧が創始した禅宗の一派で、
その門下に優れた弟子を輩出して大いに栄えました。

日本には栄西(1140〜1215)が入宋して臨済宗の教えを受け、
建久2年(1191)に帰朝して伝えました。

 

 

建仁寺.jpg
 

臨済宗・建仁寺派大本山「建仁寺」


この時代、日本では天台宗などの既成宗派の勢力が強く、
禅宗のような新しい宗派が受け入れられるにはまだ時期尚早でした。

そこで、栄西は京都に建仁寺を創建したが、
そこを禅宗の専門道場とはせずに、
密教、天台、禅の三宗兼学道場として、
天台宗などからの批判をかわしました。


一方で鎌倉時代になると禅は武士の間で人気を集めました。

栄西は北条政子の招きで鎌倉に赴き、
ここで頼朝の菩提を弔うために寿福寺を創建しました。

これが最初の禅宗専門の寺院であります。



建長寺.jpg

臨済宗・建長寺派大本山「建長寺」


その後、建長5年(1253)には建長寺が建立されたのをはじめとして、
北条氏の保護もあって臨済宗は鎌倉を中心に栄え、
鎌倉五山(禅宗で最高の格づけをされた五大寺)も整備されました。

 

相国寺.jpg

臨済宗・相国寺派大本山「相国寺」


室町時代になると足利氏が臨済宗を厚く保護し、
天龍寺、相国寺を創建して五山の筆頭に据え、
臨済宗は室町時代を通じて大いに栄えました。

江戸時代になって徳川幕府は各宗派を平等に扱いましたが、
やはり、武士に好まれる禅宗は各藩で人気があり、
禅宗の寺院は総じて栄えたのでした。


禅宗のもう一つの宗派である曹洞宗が参禅修行(実践)に重きを置くのに対し、
臨済宗は座禅とともに公案(仏教について考えるきっかけとなる課題)を重んじ、
参禅と公案の解読を繰り返すことによって、悟りに至ることを目指します。

 

南禅寺.jpg

臨済宗・南禅寺派大本山「南禅寺」

多くの分派が生じ、現在は鎌倉の建長寺派や円覚寺派、
京都の南禅寺派や妙心寺派など14派に分かれ、
それぞれの派で活動をしています。

観光地で有名な京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は
臨済宗・相国寺派に属しています。


         ~つづく~


※引用文献:日本石材工業新聞 第1922号

 

 

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お墓と宗旨・宗派⑩融通念仏宗/大念仏寺(大阪市)

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

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お墓と宗旨・宗派⑨時宗/清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)

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上記のコラムからのつづきです。

 

 

平安時代に念仏を信仰していた良忍という人が創始しました。

良忍は比叡山で出家し、その後、京都の仁和寺で密教の秘法を授かりました。

後に、大原に隠棲して念仏を広め、
さらにお経に節をつけて歌い上げる声明に巧みで、
京都・大原の地を声明の根拠地としました。


そして、良忍は大原の里で念仏三昧に専念するうちに、
ある時、阿弥陀如来から「速疾往生(そくしつおうじょう)」
(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)
の偈文(げぶん)である「人一切人(ひとりいっさいにん)、
一切人一人いっさいにんひとり)、一行一切行(いちぎょういっさいぎょう)、
一切行一行、一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、
十界念仏、融通念仏、億百万編、功徳円満」という言葉を授かったと言います。

 

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融通念仏宗大本山/大念仏寺最大の伝統行事「万部おねり」
 

一人の念仏がすべての人に行き渡るということ。

つまり、一人が念仏を称えれば、それはすべての人の功徳となり、
また、すべての人の念仏は自分の功徳ともなるということであります。

そして、自他の念仏の功徳によって浄土に往生しようとするものであります。

毎朝、西方に向かって良忍の説いた十界一念・自他融通の
浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とします。


良忍の融通念仏は専修念仏の先駆であり、
その後、確立した法然上人の浄土宗や
親鸞聖人の浄土真宗の先行的形態と内容を持つとも言えます。

ただ、良忍の時代の融通念仏は勧進行脚が主で、
仏教宗派としての組織を持たず、時宗のように人々が集まって念仏を称え、
その念仏が融通し合うということに重きが置かれたのでした。

 

大念仏寺.jpg

融通念仏宗大本山/大念仏寺

また、大阪平野区の大念仏寺をはじめ、京都の清凉寺や壬生寺などで
融通念仏が盛んになり、今も壬生寺などには融通念仏の中興者である
円覚上人による大念仏狂言が伝えられています。


しかし、拠点になる特定の寺もなかったことから、良忍の没後は衰退し、
その法系はしばしば途絶えることもあったが、細々と命脈を保ってきました。

融通念仏の寺も他宗派の寺院となり衰退の一途を辿りました。


元禄年間(1688〜1703)に、融通念仏再興の祖とされる
大念仏寺第四十六世の大通が融通念仏の復興に努め、
「融通円門章」等により教義を明らかにし、一宗としての体裁を整えました。

現在では、大阪の大念仏寺が大本山となっています。



          ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1919号

 

 

 

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お墓と宗旨・宗派⑨時宗/清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
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■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

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■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
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■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

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■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

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■お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

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上記のコラムからのつづきです。

 

時宗の基をつくった一遍上人は伊予(愛媛県)の豪族の子に生まれ、
若くして出家しましたが、後に家督を相続するために、
還俗(出家した者が元の俗人に戻ること)して妻をめとり子供ももうけました。

しかし、一遍を亡き者にしてまで家督を奪おうとする親族の醜い争いに失望し、
再び出家して一所不住の遊行の旅にたったのです。

一遍は終生に渡り遊行生活を続けたので遊行上人と呼ばれています。


彼は全国を巡り歩いて「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配って人々に往生を約束しました。

そして、念仏を唱える喜びのうちに信者とともに踊り、
それが後世にに伝えられる「踊念仏」となり、
さらには「盆踊り」の起源ともなったと言われています。


また、一遍はあらゆるものを投げ捨てて「南無阿弥陀仏」を唱えることを説き、
自らも最後にはわずかに持ち歩いていた教典や自分の著作を
「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
と言って焼き捨ててしまったとのことです。

このことから彼はまた「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれています。


時宗の本義は「時衆」で、ある場所に縁を得て参集した人々が念仏をとなえ、
賦算(時宗独自の行事であるお札配り)を受けることによって往生が確立します。

そして、その場所を離れた後は皆が往生することを約束されているから、
参集して念仏をとなえたり、修行をするための道場や寺院は必要ない、
というのが一遍の考えでした。

したがって、一遍は文字通り一所不住の遊行生活をして、
寺院を建立したり、宗規を定めたりすることはなかったのです。

 

時宗総本山・清浄光寺(遊行寺).jpg

時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)

しかし、一遍の没後、彼の弟子たちが徐々に教団を整備し、
第二世の他阿上人のときには宗規を確立し、
第五世安国にいたって藤沢の清浄光寺(遊行寺)を本山と定めて今日に至ります。

現在、400余りの寺院があり、浄土宗、浄土真宗と並ぶ、
浄土系宗派の一大勢力となっています。



           ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1917号



 

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お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

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■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

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上記のコラムからのつづきです。

 

浄土真宗は鎌倉時代に法然上人の弟子である
親鸞聖人(1173〜1262)がその基をつくりました。

親鸞は妻帯して子供も多くもうけ、
非僧非俗(僧にあらず、俗にあらず)
という独自の立場を主張しました。

 

親鸞聖人.jpg

親鸞聖人像

法然の浄土宗と同じく他力本願を説きますが、
「南無阿弥陀仏」を唱えなくても救われるという
"絶対他力"を説くのが特徴です。

また、親鸞の言行録である『歎異抄(たんにしょう)』には、
「善人なおもて往生をとぐ。況や悪人をや」という言葉があるように、
悪人こそ救われるという「悪人正機説」を説くところに特徴があります。

親鸞は一宗を開くつもりはなく、
死語はその遺骸(いがい)は鴨川に投げ入れて魚の餌にしろ、
という遺言を残して90歳の生涯を閉じました。

しかし、その遺骸は今の知恩院の境内の隅に葬られ、
10年後には娘や弟子の手によって盛大な法要が営まれて、
浄土真宗の基盤が確立し、親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)の時に
はじめて本願寺を名乗りました。

 

 

国宝・西本願寺唐門.jpg 

 

国宝、西本願寺唐門

親鸞以来、妻帯してその長男が世襲しましたが、
第八代蓮如(れんにょ)の時に教線を拡大して北陸に及び、
全国的にも絶大な支持を受けました。

蓮如は和讃(仏教の讃歌)を作るなどして、
浄土真宗の教えを平易に説き、民衆の圧倒的な支持を得ました。

しかし、彼の時代に教線を拡大したために、
天台宗など既成の宗派との間に争いが絶えず、
本願寺も各地を転々とすることになりました。


また、浄土真宗は一向一揆の主役となり、
信長や秀吉はその制圧に苦慮しました。

このため、江戸時代前夜には徳川家康がその勢力の分割を図り、
慶長7年(1602)に東本願寺と西本願寺に分けられ、
勢力が二分されることになりました。

 

京都三大門の一つ、東本願寺の御影門.jpg 

京都三大門の一つ、東本願寺の御影門

現在、西本願寺を中心とする本願寺派と、
東本願寺を中心とする大谷派をはじめ、
親鸞の弟子の真仏を祖とする高田派ほか、
仏光寺派、木辺派、出雲路派、興正派、山元派、
誠照寺派、山門派などがあり、浄土真宗十派と称しています。

現在、合わせて約二万箇寺の末寺を有する最大の宗派であります。



          ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1913号




 

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閏年(うるうどし)にお墓を建てると良くないの?

4年に一度回ってくる『閏年(うるうどし)』。

ちょうど、オリンピックが開催される年に当たります。

その閏年に「お墓を建てると良くないのでは?」というお話を時々耳にします。

 

閏年・お墓1.jpg 

「どなたがそのように言われたのですか?」と尋ねますと、
親戚の方であったり、近所の方であったりと様々ですが、
なぜ、「閏年にお墓を建てると良くない!」と言われているのか、
本当の意味は一般的にあまり知られていないようです。


では、どのような理由でこのように言われるのでしょうか?


わが国では明治7年までは、暦づくりをする際には、
月の動きを基準とした太陰暦(旧暦)が使用されていました。

その当時の閏年は現在の366日計算ではなく、
何年かに一度、約三十日(一ヵ月)の閏(うるう)を設けて、
1年を平常の年よりも1ヶ月多い13ヶ月にして調節していたのです

その当時、江戸時代の武士などの給金はほとんど年額で支払われていました。

そうすると、閏年は同じ年額給金で一ヵ月多く生活しなければなりません。

このため、藩主は家臣に余分な出費を極力おさえ節約をすすめました。

 

お墓・閏年2.jpg 

このような「言い伝え(迷信)」の発祥は九州地方から出たものと言われています。


その昔、九州のある藩主が、「閏年には仏壇の購入を禁止する」
という布令を出したことから始まりました。

旧暦による閏年では、現在の1日多いだけではなく、
一年が13ヶ月(平年の12ヶ月プラス閏月の1ヶ月)となっていましたから、
どうしても節約をする必要に迫られていたのです。

この閏年には「仏壇の購入をするな!」という布令は、
藩主が家臣たちの生活の苦しさを和らげるために出した「苦肉の策」だったそうです。

これがそのまま、「閏年にはお仏壇は買うべきでない」とか、
「お墓を建てることは良くない」などと、まことしなやかに伝えられてきたのです。

しかし、現在は太陽暦なので、閏年は平年より一日多いだけです。
一日の生活費を節約するためだけでお墓の新調を見合わすことはありまあせん。


太陽暦を採用している現在では、全く意味の無いことになってしまっています。


言い伝えや迷信とされることも、その由来をたどりますとなかなか面白い話もありますが、
現代の私たちの生活とはあまり関係のないものもあるようです。


閏年を以上のような「言い伝え(迷信)」で忌み嫌う地域もあれば、
閏年が一年中で最も仏具やお墓が売れる地域もあるようです。

それは、「うるう年(閏年)」を「うるおう年(潤う年)」と捉え、
苦楽の「苦」を迷信として残す地域とは異なり、「楽」を言い伝えとして残している地域です。

実際のところ閏年は1ヶ月長かった訳ですから、「楽」も通常の年より多かったのです。


お墓は大切な故人をお祀りし、将来の自分自身の住まいでもあります。

故人を偲び、ご先祖を供養するのに「良い年」「悪い年」があるのでしょうか?


何時であっても、『供養』をする気持ちがあれば通じるものではないでしょうか。


【暦について】
旧暦:月の動きを暦の基準とした計算で、何年かに一度1年を13ヵ月間で調整。
新暦:地球が太陽のまわりを一周するのに、365日と5時間48分46秒かかります。
そこで、4年に1度の閏年で調整しています(正確には1日は24時間と57秒です)。



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お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
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■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

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■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271022/

 ■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

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上記のコラムからのつづきです。


阿弥陀如来の極楽浄土に往生しようとする浄土信仰は、
早い時代にインドで起こり、中国では熱狂的な信仰となりました。

この信仰が日本にも伝えられ、
平安時代の中期になると、次第に盛んになってきます。

平安時代の後半には宇治平等院鳳凰堂など、
極楽浄土を地上に再現した浄土建築や浄土庭園がつくられるようになりました。


そして、平安末期からは浄土信仰は破竹の勢いで全国に広がりを見せるようになり、
多くの人々が極楽往生を願って念仏を称えるようになりました。

そんな時代背景の中、法然上人(源空とも呼ばれる)が、
浄土信仰を中心に開いたのが浄土宗であります。

 

法然上人御影.jpg

浄土宗の開祖、法然上人御影
 

法然上人は当初は比叡山で修行をしましたが、
承安5年(1175)に山を下り、
吉水(今の知恩院のところ)に草庵(粗末な家)を結び、
専修念仏(念仏に専念すること)の道場としました。

この道場には老若男女貴賎を問わず多くの人々が雲集し、
法然の念仏は絶大な支持を受けました。


法然は『選択(せんちゃく)本願念仏集』という書を著し、
これが実質的な浄土宗の開宗宣言になりました。

しかし、念仏が余りの勢いで広まったことに警戒感を強めた、
天台宗などの既成宗派や政府の手によって念仏は弾圧され、
法然も一度は四国に流罪になりました。

法然の没後、弟子たちによって基盤が整えられ、
知恩院を拠点に浄土宗の基盤が固まりました。


阿弥陀如来の来歴や念仏のくどくを説く、
「浄土三部経(『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』)」を拠点とし、
ひたすら念仏を称えれば極楽往生を果たすという、他力の思想を展開しました。

 

知恩院.jpg 

浄土宗の総本山、知恩院・山門(京都府)
 

その後、西山(せいざん)派と鎮西派に大きく分かれ、
知恩院を総本山として、増上寺(東京芝)、今戒光明寺(京都)、
光明寺(神奈川)、善導寺(福岡県)の五大本山を中心に、
末寺は合わせて七千箇寺を超えます。


また、法然上人の弟子に親鸞がおり、
後に他力念仏をさらに推し進めて浄土真宗の基をつくりました。



           ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1911号




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お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)

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上記のコラムからのつづきです。


もともと7世紀頃にインドで成立した密教が
中国で整備されて真言宗という宗派になりました。

平安時代のはじめに弘法大師空海が中国に留学し、
真言宗をわが国にもたらし、独自の体系にまとめ上げたものであります。

 

弘法大師像.jpg

弘法大師像

空海は帰朝後、高野山を創建して密教の根本道場とし、
さらには官寺(国家で運営する寺院)として創建された東寺(教王護国寺)を
朝廷から賜って密教寺院にしました。

空海の密教は当時の皇族や貴族の間で絶大な支持を受け、
瞬く間に普及しました。


平安時代の末には高野山の座主になった
覚鑁(かくばん)という高僧が空海以来の教義に異論をとなえたのです。

結局、その門下が空海以来の教義に忠実な高野山の保守派と袂を分かち、
鎌倉時代には紀州(和歌山県)の根来寺を根拠地として新たな流派をつくりました。

これが、新義真言宗と呼ばれるもので、
以来、それまでの高野山の系統は古義真言宗と呼ばれるようなりました。


鎌倉時代以降、庶民の間に仏教が広まると、
弘法大師伝説とともに庶民の間にも不動信仰などの密教の信仰が普及し、
真言宗は古義、新義ともに大いに盛況に向かいました。


今も成田山新勝寺などは正月には数百万人が押し寄せ、
他の真言宗の寺院にも多くの人が参詣されています。

また、真言宗のお寺では厄除けなどの護摩供養が行われ、
これも、多くの人々に支持されています。


時代とともに真言十六派と呼ばれるように
多くの流派に枝分かれしました。

 

高野山金剛峯寺・根本大塔.jpg 

高野山真言宗大本山/金剛峯寺・根本大塔

古義真言宗には高野山真言宗(大本山・高野山金剛峯寺)、
真言宗山階派(大本山・山階寺)、真言宗醍醐寺派(大本山・醍醐寺)、
真言宗御室派(大本山・仁和寺)、真言宗東寺派(大本山・東寺)、
真言宗泉涌寺派(大本山・泉涌寺)などがあり、
新義真言宗には豊山派(大本山・長谷寺)と智山派(大本山・智積院)、
新義真言宗(根来寺)があります。

 

須磨寺・山門.jpg

真言宗須磨寺大本山/須磨寺・山門

現在では、真言宗十八本山となり、私の地元、兵庫県にも、
安産祈願で有名な宝塚市の中山寺(真言宗中山派・大本山)や
同じく、宝塚市にあり、「荒神さん」として人々に呼び親しまれ、
"かまど神"(台所など火を扱う所に祀られる神)として
飲食店の経営者の多くがお参りに行く清荒神清澄寺(真言宗三宝宗・大本山)、
そして、神戸市には、源平合戦ゆかりの須磨寺(真言宗須磨寺派・大本山)などがあります。


真言宗では「南無大師遍照金剛」と称えます。

「南無大師」は弘法大師のことで、宗祖弘法大師に崇敬の念を抱き、
それを称えることによってその加護に授かろうとするのであります。




          ~つづく~




※引用文献:日本石材工業新聞 第1908号




 

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お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)

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上記のコラムからのつづきです。

 

六世紀に中国の天台大師智顗(ちぎ・538~597)が大成した宗派で、
『法華経』を最高の教えと位置付け、その教えによって悟りを得ようとするものです。

中国の聖山、天台山を拠点としたことから、天台宗と言われます。


日本には平安時代に伝教大師最澄が伝えました。

最澄は『法華経』の教えを中心として、戒律、禅、密教、浄土教などを
融合した仏教を目指し、これを体系化いたしました。

ここに、日本独自の天台宗が誕生したのであります。

最澄の没後は慈覚大師円仁(第三代天台座主)や、
智証大師円珍(第五代天台座主)などの活躍により隆盛を迎えました。

円仁、円珍の二人はともに唐(中国)に10年ほど留学して、
特に密教を十分に学んできました。

その結果、天台密教が栄え、真言密教を凌ぐ勢いになったのであります。


しかし、円仁と円珍は教理面で解釈を異にし、
密教の作法などについても異なる点が多々あったのです。

そこで、二人の弟子筋の間には確執を生じ、
しだいに激しく争うようになりました。

そして、正暦4年(993)、ついに円珍の派閥の門徒たちは比叡山を下り、
滋賀県の園城寺(三井寺)を拠点といたしました。

以来、「山門派(さんもんは)」と「寺門派(じもんは)」という、
二流派に分かれることになりました。

 

比叡山延暦寺・根本中堂.jpg 

比叡山延暦寺の根本中堂


また、冒頭にて説明しましたように、
天台宗の教えは仏教のあらゆる教えを融合しようとするものであります。

したがって、最澄の時代から特定の宗派に関わらず、
多岐にわたる教典が比叡山に集められました。

比叡山に行けば『法華経』はもとより、
その他の多くの教典を閲覧することができ、
また、それぞれの分野においても良き指導者がいました。


そこで平安時代の中ごろからは多くの優秀な学徒が集まり、
比叡山はさながら仏教の総合大学の様相を呈しました。

浄土宗の法然や曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など、
鎌倉時代に新たな宗派を開いた祖師たちの多くも
当時は比叡山で学んでいたのでした。

天台宗はまさに日本の仏教の根元としての
役割を果たしたと言っても過言ではありません。


天台宗は比叡山延暦寺を総本山とし、
現在、8,000あまりの寺院が所属しています。




        ~つづく~




※引用文献:日本石材工業新聞 第1905号



 

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
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■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

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■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

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上記のコラムからのつづきです。


律宗(りっしゅう)は中国で戒律(僧侶が守るべき規律)の研究に基づいて成立した一派です。

戒律の研究を厳格に守って修行生活をすることによって、悟りを開くことを理想とします。

 

鑑真和上坐像.jpg 

唐招提寺の鑑真和上坐像


日本には奈良時代に中国の鑑真和上が苦難の旅の末に来日して伝えたものです。

井上靖氏の小説『天平の甍(いらか)』で有名な鑑真和上は、
防風雨や海賊に阻まれて5回も渡来に失敗したが、
6回目の挑戦でやっと日本にたどり着くことができました。

その間に11年の歳月が過ぎ、当初の同士はすでに渡日を諦めたり亡くなったりしていました。


鑑真自身も海賊に襲われたり、嵐で難破したりし、
海に投げ出された際に潮で目を痛めてついに失明してしまいました。

それでも決して諦めることなく、ついに初志を貫いて念願の来日を果たしたのであります。

時に鑑真は67歳になっていました。


天平勝宝6(754)年に来日した鑑真は東大寺に戒壇を設けました。

戒壇は僧侶に正式に戒律を授ける施設で、
これによって日本国内で戒律を受けることができるようになり、
多くの僧侶がここで受戒したのであります。

これは、日本の仏教史上、画期的な出来事だったのです。

 

唐招提寺.jpg 

律宗の総本山、奈良市の唐招提寺


鑑真は大和尚の号を賜り、大僧正に任ぜられました。

さらに後には聖武天皇の勅願によって唐招提寺が建立され、
鑑真が住持(住職)となり、天平宝字7(763)年に77歳の生涯を閉じました。


鑑真没後も唐招提寺は戒律研究の根本道場として栄えましたが、
平安時代以降、都が京都に移るとしだいに衰えてきました。

特に平安時代のはじめに、伝教大師最澄が比叡山に大乗戒壇を創設すると、
衰退の一途を辿ることになったのです。


鎌倉時代になると実範(じっぱん)、覚盛(かくじょう)らの尽力によって、
復興を見たが、室町時代には守護大名などに寺領を奪われて再び衰退しました。

ただし、幸いにも兵火にまみえることなく、
伽藍や仏像などは残され、現在も多くの参拝者を集めています。

寺内に納められている鑑真和上像(国宝)は、天平時代の作でありますが、
鑑真の人柄を今に伝える名作として有名であります。


現在、律宗は唐招提寺を大本山とし、24の末寺を擁しています。




           ~つづく~




※引用文献:日本石材工業新聞 第1900号

 

 

 

 

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