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理事長ブログ 2012年10月

お墓と宗旨・宗派⑨時宗/清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/200822/

■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/220918/

■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/241446/

お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271022/

■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271029/

■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/071000/

■お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/111005/

 

上記のコラムからのつづきです。

 

時宗の基をつくった一遍上人は伊予(愛媛県)の豪族の子に生まれ、
若くして出家しましたが、後に家督を相続するために、
還俗(出家した者が元の俗人に戻ること)して妻をめとり子供ももうけました。

しかし、一遍を亡き者にしてまで家督を奪おうとする親族の醜い争いに失望し、
再び出家して一所不住の遊行の旅にたったのです。

一遍は終生に渡り遊行生活を続けたので遊行上人と呼ばれています。


彼は全国を巡り歩いて「南無阿弥陀仏」と書かれた札を配って人々に往生を約束しました。

そして、念仏を唱える喜びのうちに信者とともに踊り、
それが後世にに伝えられる「踊念仏」となり、
さらには「盆踊り」の起源ともなったと言われています。


また、一遍はあらゆるものを投げ捨てて「南無阿弥陀仏」を唱えることを説き、
自らも最後にはわずかに持ち歩いていた教典や自分の著作を
「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
と言って焼き捨ててしまったとのことです。

このことから彼はまた「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれています。


時宗の本義は「時衆」で、ある場所に縁を得て参集した人々が念仏をとなえ、
賦算(時宗独自の行事であるお札配り)を受けることによって往生が確立します。

そして、その場所を離れた後は皆が往生することを約束されているから、
参集して念仏をとなえたり、修行をするための道場や寺院は必要ない、
というのが一遍の考えでした。

したがって、一遍は文字通り一所不住の遊行生活をして、
寺院を建立したり、宗規を定めたりすることはなかったのです。

 

時宗総本山・清浄光寺(遊行寺).jpg

時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)

しかし、一遍の没後、彼の弟子たちが徐々に教団を整備し、
第二世の他阿上人のときには宗規を確立し、
第五世安国にいたって藤沢の清浄光寺(遊行寺)を本山と定めて今日に至ります。

現在、400余りの寺院があり、浄土宗、浄土真宗と並ぶ、
浄土系宗派の一大勢力となっています。



           ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1917号



 

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お墓と宗旨・宗派⑧浄土真宗/西本願寺・東本願寺(京都府)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/200822/

■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/220918/

■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
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■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

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■お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/10/071000/

 

上記のコラムからのつづきです。

 

浄土真宗は鎌倉時代に法然上人の弟子である
親鸞聖人(1173〜1262)がその基をつくりました。

親鸞は妻帯して子供も多くもうけ、
非僧非俗(僧にあらず、俗にあらず)
という独自の立場を主張しました。

 

親鸞聖人.jpg

親鸞聖人像

法然の浄土宗と同じく他力本願を説きますが、
「南無阿弥陀仏」を唱えなくても救われるという
"絶対他力"を説くのが特徴です。

また、親鸞の言行録である『歎異抄(たんにしょう)』には、
「善人なおもて往生をとぐ。況や悪人をや」という言葉があるように、
悪人こそ救われるという「悪人正機説」を説くところに特徴があります。

親鸞は一宗を開くつもりはなく、
死語はその遺骸(いがい)は鴨川に投げ入れて魚の餌にしろ、
という遺言を残して90歳の生涯を閉じました。

しかし、その遺骸は今の知恩院の境内の隅に葬られ、
10年後には娘や弟子の手によって盛大な法要が営まれて、
浄土真宗の基盤が確立し、親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)の時に
はじめて本願寺を名乗りました。

 

 

国宝・西本願寺唐門.jpg 

 

国宝、西本願寺唐門

親鸞以来、妻帯してその長男が世襲しましたが、
第八代蓮如(れんにょ)の時に教線を拡大して北陸に及び、
全国的にも絶大な支持を受けました。

蓮如は和讃(仏教の讃歌)を作るなどして、
浄土真宗の教えを平易に説き、民衆の圧倒的な支持を得ました。

しかし、彼の時代に教線を拡大したために、
天台宗など既成の宗派との間に争いが絶えず、
本願寺も各地を転々とすることになりました。


また、浄土真宗は一向一揆の主役となり、
信長や秀吉はその制圧に苦慮しました。

このため、江戸時代前夜には徳川家康がその勢力の分割を図り、
慶長7年(1602)に東本願寺と西本願寺に分けられ、
勢力が二分されることになりました。

 

京都三大門の一つ、東本願寺の御影門.jpg 

京都三大門の一つ、東本願寺の御影門

現在、西本願寺を中心とする本願寺派と、
東本願寺を中心とする大谷派をはじめ、
親鸞の弟子の真仏を祖とする高田派ほか、
仏光寺派、木辺派、出雲路派、興正派、山元派、
誠照寺派、山門派などがあり、浄土真宗十派と称しています。

現在、合わせて約二万箇寺の末寺を有する最大の宗派であります。



          ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1913号




 

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閏年(うるうどし)にお墓を建てると良くないの?

4年に一度回ってくる『閏年(うるうどし)』。

ちょうど、オリンピックが開催される年に当たります。

その閏年に「お墓を建てると良くないのでは?」というお話を時々耳にします。

 

閏年・お墓1.jpg 

「どなたがそのように言われたのですか?」と尋ねますと、
親戚の方であったり、近所の方であったりと様々ですが、
なぜ、「閏年にお墓を建てると良くない!」と言われているのか、
本当の意味は一般的にあまり知られていないようです。


では、どのような理由でこのように言われるのでしょうか?


わが国では明治7年までは、暦づくりをする際には、
月の動きを基準とした太陰暦(旧暦)が使用されていました。

その当時の閏年は現在の366日計算ではなく、
何年かに一度、約三十日(一ヵ月)の閏(うるう)を設けて、
1年を平常の年よりも1ヶ月多い13ヶ月にして調節していたのです

その当時、江戸時代の武士などの給金はほとんど年額で支払われていました。

そうすると、閏年は同じ年額給金で一ヵ月多く生活しなければなりません。

このため、藩主は家臣に余分な出費を極力おさえ節約をすすめました。

 

お墓・閏年2.jpg 

このような「言い伝え(迷信)」の発祥は九州地方から出たものと言われています。


その昔、九州のある藩主が、「閏年には仏壇の購入を禁止する」
という布令を出したことから始まりました。

旧暦による閏年では、現在の1日多いだけではなく、
一年が13ヶ月(平年の12ヶ月プラス閏月の1ヶ月)となっていましたから、
どうしても節約をする必要に迫られていたのです。

この閏年には「仏壇の購入をするな!」という布令は、
藩主が家臣たちの生活の苦しさを和らげるために出した「苦肉の策」だったそうです。

これがそのまま、「閏年にはお仏壇は買うべきでない」とか、
「お墓を建てることは良くない」などと、まことしなやかに伝えられてきたのです。

しかし、現在は太陽暦なので、閏年は平年より一日多いだけです。
一日の生活費を節約するためだけでお墓の新調を見合わすことはありまあせん。


太陽暦を採用している現在では、全く意味の無いことになってしまっています。


言い伝えや迷信とされることも、その由来をたどりますとなかなか面白い話もありますが、
現代の私たちの生活とはあまり関係のないものもあるようです。


閏年を以上のような「言い伝え(迷信)」で忌み嫌う地域もあれば、
閏年が一年中で最も仏具やお墓が売れる地域もあるようです。

それは、「うるう年(閏年)」を「うるおう年(潤う年)」と捉え、
苦楽の「苦」を迷信として残す地域とは異なり、「楽」を言い伝えとして残している地域です。

実際のところ閏年は1ヶ月長かった訳ですから、「楽」も通常の年より多かったのです。


お墓は大切な故人をお祀りし、将来の自分自身の住まいでもあります。

故人を偲び、ご先祖を供養するのに「良い年」「悪い年」があるのでしょうか?


何時であっても、『供養』をする気持ちがあれば通じるものではないでしょうか。


【暦について】
旧暦:月の動きを暦の基準とした計算で、何年かに一度1年を13ヵ月間で調整。
新暦:地球が太陽のまわりを一周するのに、365日と5時間48分46秒かかります。
そこで、4年に1度の閏年で調整しています(正確には1日は24時間と57秒です)。



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お墓と宗旨・宗派⑦浄土宗/知恩院(京都府)

■お墓と宗旨・宗派①宗派について
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■お墓と宗旨・宗派②法相宗/興福寺・薬師寺(奈良県)

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■お墓と宗旨・宗派③華厳宗/東大寺(奈良県)

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お墓と宗旨・宗派④律宗/唐招提寺(奈良県)https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/08/281630/

■お墓と宗旨・宗派⑤天台宗/比叡山延暦寺(滋賀県・京都府)
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 ■お墓と宗旨・宗派⑥真言宗/高野山・金剛峯寺(和歌山県)

https://www.sekizaikumiai.com/director_blog/2012/09/271029/

 

上記のコラムからのつづきです。


阿弥陀如来の極楽浄土に往生しようとする浄土信仰は、
早い時代にインドで起こり、中国では熱狂的な信仰となりました。

この信仰が日本にも伝えられ、
平安時代の中期になると、次第に盛んになってきます。

平安時代の後半には宇治平等院鳳凰堂など、
極楽浄土を地上に再現した浄土建築や浄土庭園がつくられるようになりました。


そして、平安末期からは浄土信仰は破竹の勢いで全国に広がりを見せるようになり、
多くの人々が極楽往生を願って念仏を称えるようになりました。

そんな時代背景の中、法然上人(源空とも呼ばれる)が、
浄土信仰を中心に開いたのが浄土宗であります。

 

法然上人御影.jpg

浄土宗の開祖、法然上人御影
 

法然上人は当初は比叡山で修行をしましたが、
承安5年(1175)に山を下り、
吉水(今の知恩院のところ)に草庵(粗末な家)を結び、
専修念仏(念仏に専念すること)の道場としました。

この道場には老若男女貴賎を問わず多くの人々が雲集し、
法然の念仏は絶大な支持を受けました。


法然は『選択(せんちゃく)本願念仏集』という書を著し、
これが実質的な浄土宗の開宗宣言になりました。

しかし、念仏が余りの勢いで広まったことに警戒感を強めた、
天台宗などの既成宗派や政府の手によって念仏は弾圧され、
法然も一度は四国に流罪になりました。

法然の没後、弟子たちによって基盤が整えられ、
知恩院を拠点に浄土宗の基盤が固まりました。


阿弥陀如来の来歴や念仏のくどくを説く、
「浄土三部経(『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』)」を拠点とし、
ひたすら念仏を称えれば極楽往生を果たすという、他力の思想を展開しました。

 

知恩院.jpg 

浄土宗の総本山、知恩院・山門(京都府)
 

その後、西山(せいざん)派と鎮西派に大きく分かれ、
知恩院を総本山として、増上寺(東京芝)、今戒光明寺(京都)、
光明寺(神奈川)、善導寺(福岡県)の五大本山を中心に、
末寺は合わせて七千箇寺を超えます。


また、法然上人の弟子に親鸞がおり、
後に他力念仏をさらに推し進めて浄土真宗の基をつくりました。



           ~つづく~



※引用文献:日本石材工業新聞 第1911号




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